9月1日で佐野美術館の個展が終わります。で、これで墨絵もなんか一段落なカンジなのでちょっとまとめておこうかなー…長いよ。
ここ何年か壁一面に貼ったシワシワの障子紙に墨絵を描いてきたんだけど、何が難しいって思いどおりに描けないわけ。
デカイ上にシワシワでしょ。だから「ここらへんにこんな〇描こう」とか思って描いても、手が届かなかったり、後ろ下がって見ると思ってたより小さかったりでほぼ100パーセント描こうと思った〇なんて描けないのね。でもって「〇が小さくなっちゃったからとなりの◇は大きく描こう」なんて◇を描くと今度はまたデカすぎたり太すぎたりするのね。
つまり何かバランスをとろうと思って描き出したものがいつまでもバランスがとれない。与えられた空間が最初の一筆を描いたその瞬間から永遠にバランスの崩れた過不足のある状態になってしまうのね。
つまりあそこでボクは何かを描こうとしてるのではなく、描くことによって生じる過不足を解消するためにただ描き、そこで生じた過不足をまた描くことで…みたいな過不足に追われる状況になってて自分の内面の何かをそのイメージに沿って表現しよう、なんてエラそーな目標は持ちようがないのね。なんだかマゾっぽくてオモシロイでしょ。
でもなんかそれが生きてることに近いような気がするんだよなー。世界も自分も変化だらけでその世界と自分の間にある過不足を解消するために一瞬一瞬生きてるような。
でね、さらに言うとね、生命の本質を考える上で重要な「対流」ってのがあってね。知ってるでしょ、あの暖かい空気が上に上って冷たい空気が下に下りて、そうやってグルグル回り続けるヤツ。生命の自立的な運動もきっと根本的なところに対流みたいのがあって、それって気体の密度の高いところと低いところのアンバランス、つまり過不足が元なのね。だからってわけじゃないけど、生命もこの宇宙すらも過不足がなければ生まれない気がするのね。
宇宙なんかさ、絶対「無」の方が安定してるんだから、きっと何かの拍子で生じた過不足が宇宙の誕生で、それを解消するために今この世界は存在するんだよね、きっと。
でもっていつか過不足が解消された時、人だったら死ぬし、宇宙だったら無に戻るし、みたいな気がするんだよね。
だからボクが描いてた墨絵も描き終えたからって過不足の解消=完成ってわけじゃなくて、ただ時間切れで中断してるだけなんだよね。でもじゃあそれがつまらないかって言うとボクはそんな絵が好きで、どこが中心か周辺かわからない。何かまとまったメッセージがあるわけじゃない。描いてあるものすら人かケモノかただの線かもわからない。部分と全体、具象と抽象、主役と脇役、もちろん善も悪も、いろんなもんが脈絡なく混ざり合ってそれでいてなんか「キレイ」そんなのがスキなんだよねー。
それってボクの世界観に近いのかなー。なんだかゴチャゴチャしてデタラメで良いも悪いもなくて、でもそれでいて「キレイ」なカンジ。そんな世の中だったらいいよねー。ってゆーか今そうかー。
でもね、「対流」の話に戻るけどね。ただで運動が永遠に続くわけじゃなくてそこには外から注がれるエネルギー(対流だったら熱エネルギー)が必要で、世界に対して意図的に何がしか過不足を与えていかないと、ただエントロピーが増えて、デタラメのバラバラになって社会が成り立たなくなるかも。なんだかねー…「ちょうどよさ」を中心に振り子が行ったり来たりしてるイメージかなー?
いやー、描いてるうちによくわからなくなりました。うおーもう夕方だ。ゴメンナサイ。でもまたどこかで機会があったら墨絵を描きたいね。 では、そんなカンジで。