で、まぁしつこく続くんだけど、
そのマンガ的な絵柄の広がりがいまやすさまじい感じで広がってて、外から見るとどれも似たりよったりの一群のマンガ的なものが、量的に世の中の情報量の相当な部分を占めてきてるような?これってなんか言語っぽい?とか思ったのね。
つまり、世界中に元々多種多様な言語が存在してたのに、だんだん英語とかに収斂されていくカンジ?
絵柄の言語っぽいところは昔から感じてて、同じような内容、テーマのものを描いても、一般的な絵柄のものは広く伝わるけど、クセのある絵柄は狭い範囲にしか伝わらない。
それが同じように優れた作品でも英語版とチベット語版では部数が全然違う、のと似てるような気がして。
言葉で表されてる内容は、それぞれ個人の心情だったり、情報だったり、すごいオリジナル性の高いものだけど、言語そのものはみんなに共通して理解される一般性を持ってないといけない。
でもだからと言ってみんなに理解される言語が優秀な言語というわけではない。英語なんかが世界中で話されるのはその言語の優秀さではなく、主に歴史的な背景によるものと思っていた。
でも最近、乱暴に言うと絵画的な絵柄とマンガ的な絵柄の間には、もしかして伝達能力の優劣の差があるのかなー?と思うようになった。
マンガ的絵柄は小学生の誰もがドラえもんやニャロメを描けるように複製、再生がしやすい。数々の記号の集積で伝えたい内容が早く的確に伝えられる。つまり「絵」に「文字」としての機能が備わってるカンジがする。
絵画が絵そのもを観るのに対して、小説は無個性な文字を通してその向こうの世界を観る。マンガも小説と同じようには絵の向こうに広がる物語の世界を観る気がしたのね。だからあまり絵が個性的(作者の自己主張が強い?)だと、読者が向こうの世界に入るのを邪魔してしまう。
つまり、マンガは文字のように素早く広く人にナニカを伝えるのに優れた新しい「絵文字」かもしれない。なんかボクはマンガ絵柄をその表面的な幼児性を嫌って、そこから離れる努力をしてたけど、見当違いだったような気がしてくる。
ここまでくると絵画的絵柄とマンガ的絵柄の関係について、別の例えを思い出す。それはネアンデルタール人とクロマニヨン人だ。
ネアンデルタール人とクロマニヨン人の間にあったのはわずかな言語発声能力の差だけだったらしい。そのわずかな差でネアンデルタール人は滅び、クロマニヨン人は新人として世界中に広がった。絵画的な絵柄をネアンデルタール人、マンガ的な絵柄はクロマニヨン人なのか?
あー、クロマニヨン人の間に棲むネアンデルタール人のボクとしては、もう途方にくれるしかないのである。
もうとっくに知られてることだったり、見当違いだったら、ごめんなさい。