なんか最近ツイッターの140字では伝わらないなー、ってことがあったのでここにメモしておこう。それはボクなり時代観みたいなもので…
別のところにも書いたんだけど、ボクは今の時代を「上昇の終わりから下降の始まり」に入った時期だと思ってます。それは主に富とか豊かさが乏しくなるってことだけど。
で、そうなると今までの「パイを広げるため、あるいは広がるパイを分け合うための価値観=個人の欲望を主張する」から、「縮むパイの中で皆が生き残るための価値観=共同体重視、欲望制御」に変化していくのかなー、とか思って(個人的には全く望んでないけど)。
つまり極端な例でいえば、10人が勝手なことしてると10人とも死んじゃうけど、10人が個人的な欲望を抑えて、さらに2人くらい犠牲になることで残り8人が生き残れるみたいなそんな過酷な時代になる気がしてます。でも、そうなると共同体を結び付ける理論だったり、倫理だったり、掟みたいなモノが、新たに必要になる。
でも一度そういった理念を壊して「個人の自由な欲望」に基礎をおいた社会がなかなかそう共同体モードを再度作りあげるのは難しい。
復古的に家や国家中心に戻るには現実が変わりすぎてる気もするし、でも全く新しく作るってのも見当がつかない。結局そんなことグズグズやってるうちに「縮むパイの分捕りあい」の時代に入っちゃうと、理論、倫理でなく暴力でしか共同体を繋ぐことができない、そんな時代がくるんじゃないか、みたいな心配。
「正しさ」や「問題をとく複雑なプロセス」を捨てて「身の安全」や「村八分」を避けるために「力」におもねって一致団結してる共同体、そんなふうになるのが、コワイ。これは「ジャカランダ」で描きたかったことなんだけどね。
これって「平時から乱世へ」みたいなことと似てるのかなー?
そうしてみると江戸時代ってスゴイよね。300年に超える泰平の中、武士階級の中に「乱世用倫理」を保存してたんだものね。今の日本じゃ黒船がきても誰もなんともできないだろうな。
今後どうするべきか?なんてムズカシイことは分からないけど、身近な話でいえば「めんどうなトラブルを避ける」のはよくないことのような気がする。
それが正しいかどうかを置いといてそのメンドクサガリが、「声の大きいもの」「力のあるもの」に力が集まる元になる。
そんな意味で気になるニュース二つ、
[笑いと権力」風刺マンガ対東国原知事
「消費者という権力者」福音館対嫌煙家
あー、ノンキな時代がいいなー。
(リンクの貼り方を忘れた)