この前、編集の人と飲んでてアートってなんだろうね?みたいな話になったのね。
ボクは自分のことアーティストだなんて思ってないけど、「アート好き」であることは確かで、
じゃあ自分たちが好きなアートってのはなんだろうね?みたいな話になって。
美しいものだけがアートってわけじゃないし、上手なものだけがアートってわけじゃないし、
かといって何でもかんでもアートだっていうのもなんかアートっぽくないし、
よくわからないでしょ、アートって。
で、その時出た話で「なるほどなー」と思ったのは、「アートは外側からくるもの」みたいな説。
つまりこの現実ってのは「諸事情の束」みたいなもので、アートはそういう諸事情の束の外側からやってくる、あるいは外側からの視線を与えてくれるっていうか。
諸事情ってのは、コストのことだったり、技術の限界だったり、政治体制によって制限された表現だったり、世の中の常識だったり、そういうモノをつくる上で配慮を強いられる全てのものね。
で、アートはそういう諸事情から一切きりはなされたところに存在するもので、まぁ言ってみれば「完全に自由な存在」。
だからアートは僕たちに驚きを与えてくれる。
「これって絵なの?実物みたい!」だったり、「こんなすげぇ風景見たことない」だったり「こんなものをこんなところに置くんだ?」みたいのだったり「そんなこと言っちゃっていいんだ?」とか「こんなヘンなもの初めて!」とか「ここをそうしたらこんなことになるんだー!」とかとか。
で、「驚き」と同時に「憧れ」も与えてくれる。
今いるところを超えた完璧で絶対的なナニカに対する憧れ。
こんなふうに書くと「そんな諸事情から切り離されたものなんてこの世に存在しないじゃん。アートなんてこの世にないじゃん」てなるよね。
そう、ボクも厳密にいえばこの世にアートなんて存在しないと思ってる。
あるとしたら「アート的な要素」だけだ。そしてそれぞれの作品にアート的な要素の濃度の差がある。
つまりさまざまなものにアートの粒みたいなものが入ってて、その粒の多いいものが一般的にアートと呼ばれてるカンジ。
ほら森林浴でフィトンチットの濃度が高くなると空気が清々しくなるでしょ。
あれと同じでモノもアートの要素が濃くなると清々しい匂いを発する。
そうアートは匂いだ(笑)
でまぁなぜこんなことを考えることになったか、というと、シュールとか言われるある種のギャグ漫画にボクはこの清々しさを濃く感じるんだね。戦車さん、天久さん、とりさん、長尾さん……
これらのギャグにはいつも外からの視線、世界の外からこの世を相対化しようとする視線が感じられる。
天久さんの言葉だけど、常識を、自分の作品を、そしてひとつ前のコマを裏切り続けるみたいな姿勢。
なんかカッコイイ。
その時、気がついたのね。それらのギャグ漫画家の元は赤塚不二夫だと思ってたけど、もっと元をたどればデュシャンの「泉」にたどりつくでしょ。トイレに署名した「泉」はオーダーメイドのアート化とかなんとか難しく言われるけど、あれはギャグでだよね。ギャグ漫画と「泉」は同じ清々しい匂いがするでしょ…
あーなんか清々しい漫画描きたいなー、別にギャグでなくてもいいけど、全ての諸事情から解き放たれたような、そのあまりの自由さに目が覚めるような漫画…
とかなんとかそんなことを夜中まで飲んで話してたのでした。
こんなことばっかり話してるから僕らの本は売れないのかもね、岩井さん。