京橋のASK?でやってる個展が会期延長になりました。ということはちょうど会期半分過ぎたことになるのかな?この展覧会はいろいろな人からあれ何?みたいに尋ねられることが多いのでこの機会に作品について書いておきます。ネタばれとゆーかタネあかしとゆーか。
http://www2.kb2-unet.ocn.ne.jp/ask/2015/shiiagari_15.html
ボクが回転に惹かれたのはいつだったかな?最初は映画「ガメラ対ギャオス」かな?ギャオスを捕らえるために回転するホテルの展望台の上にギャオスの好物の血液をのっけてギャオスが血を飲んでる間に展望台をグルグル回し、ギャオスの目を回させて捕らえるという作戦でね。結局作戦は失敗だったけど、回転スゲーって思ったなー。次は予備校の頃、下宿が近かった高田馬場駅のホームから落合の方を見ると、お相撲取りとセクシーな女の人が向かい合って立ち会い前の仕切りみたいのやってる通称「エロ噴水」てのが見えるんだけど、これがグルグル回っててね。東京出てきたばかりの18歳のボクはよくホームでボーッと噴水が回るのを眺めてた。
で、4年前 2011年の秋に広島現美で秋山祐徳太子さんと「ブリキ方舟展」という二人展をやらせてもらったんだけど、その中に「チクビ真っ黒族と股のあたりキラッ族の世界遺産をめぐる戦い」ていう作品があって、大きな部屋に10体くらいづつのマネキンがそれぞれチクビ真っ黒族と股のあたりキラッ族に扮して向かい合って立ってるんだけど、なんかこうもうひとつ物足りなくて、いろいろ考えてその時もう展覧会の一月前くらいだったんだけど広島のビジネスホテルで朝風呂に入ってる時に「マネキンを回せばいいんだ!」て思いついたのね。
で回してみるとこれがなんとも面白い。存在が急にアピールされて空間が充たされるんだね。それからボクはいろいろなところでいろいろなものを回してきた。観◯光展では鎌倉円覚寺の龍隠庵の倉庫で薬箱やティッシュやらいろんなものを回した。一昨年から昨年にかけての京橋ASK?では画家のアトリエを回した。地下では小さなダルマと焚き火を回した。昨年の春からは箱根彫刻の森美術館で大きなダルマ30体を回し「おれはーすごいぞ、えらいんだぞー♪」と小声で唄わせた。静岡のCCCでは今でもデッサン教室がまるごとグルグルと回ってる。
そう、なんかね回すってことがシンプルだけど深いことのように思えてきて、今の時代目の前の景色はどんどん変わっていくけど結局どこにも行き着けないというか、自分たち自身が同じ場所でただただグルグル回ってる存在に思えてきてね。何でもかんでも回してみると「そうか、おまえもか。」て感じで感情移入したりしてね。まぁとにかくここのとこやたらいろいろ回してきた。
さて、で今回も何か回そうと思って。で昨年の展示で壁で回ってた絵がいい味出してたのでもう一度今度は徹底して絵画を回そうと思って。その場合、おそらくそれは「風景が回ってる」とか「人物が回ってる」とか「抽象画が回ってる」とかそういうものを一切省いたただ「絵が回ってる」のがよかろうということになって。つまり何が描いてあるとか何を訴えようとかそういう内在するものが何も無いような、とりあえず絵画としか言えないようなただの「絵画」。例えば会社の応接室にずっと飾ってあるんだけど、何度そこで打ち合わせしても何が描いてあるのか思い出せないような、しいて言えば「絵がそこに存在すること」だけを訴えているそんな絵を回したかったのね。
でもってテキトーに頭の中で想像して壺の絵を描いてみたんだけど、いやーなんともビミョーな絵ができあがって(笑)。自分の中でこれヘンテコだから回すんじゃなくて別の見せ方ないかな、とか迷いだして。迷って迷ってやっぱり回そうってことになったのね。
展覧会のタイトルも途中で変えたりしてゴメンなさい。でもやっぱり回転すごいわ。絵画としか言えない絵画ってなんだろう?とかいろいろ迷ってたのが回りだしたらもうどうでもよくなって(笑)。回っちゃったらなんでも同じじゃんみたいな破壊力感じたりして。いやー、てなことで元気よく2月13日まで回っております。ボクの回転依存症はしばらく治りそうもないね。
いやー、この前のブログが思いのほかたくさんの人に読んでもらえたみたいで、ありがとうございました!
で、日にちがずいぶんたっちゃいましたがちょっと時間ができたので調子にのってあの時思ったことを少し書きたしておきます。
ボクが風刺漫画の事件で驚いたのは大きく分けて二つでした。
一つはシャルリーの風刺漫画がひどかったこと(笑)。
おそらく日本であのマンガはダメだろー。表現がストレートすぎることや対象を傷つけること、あるいはクレーム、報復を恐れてというのもあるかもしれませんが、おそらく日本のメディアでは載せられないと思います。それがなぜフランスではOKなのか?なぜ漫画家たちはあのような挑発的なマンガを描き続け、そしてそれを多くの人が認め、テロの後にあのような「私はシャルリーだ」と連帯が広がったのか?
そんな疑問があのブログを書くキッカケでした。ネット等で多少フランスの情報などをかじり、事情に詳しい方のtweetとか読んでくと、ああ、表現の自由は単に「相手がイヤなものは描かない」ということだけではすまないのだな、言いたいことを言える快感だけが大切なのでなく、社会が更新していくために表現の自由って大切なのかもな、と思って前回の砂金採りの話を書いたんですねー。
で、事件を知ってボクが驚いたことはもう一つあります。それは「フランスでもダメなのか…?」という驚きです。つまり多文化共生についてフランスなど欧米は先進国のはずなのにああいうことはおこるんだ、というビックリ。実際フランスだけでなくヨーロッパやアメリカの街を歩くと日本に比べ、実に様々な肌や髪の人たちがいることに驚かされます。ところがそんな多文化先進国で今回のような事件がおきた。そういえばアメリカでも最近人種を発端とした暴動がおこりましたし、2011年のイギリス、2005年のフランスの暴動もおそらく異文化間の軋轢が原因のひとつだったと思います。なぜ異文化が対立するんだろう?なぜ共生がうまくいかないんだろう?日本に住んでると正直なかなかピンときません。
幸いそういった摩擦を経験せずに生きてきた自分の勝手な想像ですが、多文化共生ってお寺の鐘がゴーンとなるような昔ながらの土地に、モスクができてゴーンと一緒にイスラムの詠唱が流れるようなものなのかなー?だとしたら、近くの学校の運動会がうるさいとクレーム入れるような昨今の風潮からするとモスク反対の運動がおこるかもしれません。いや逆に明治維新でたやすく西欧文化を取り入れた日本にはそんなものへっちゃらかもしれませんし
あるいは冬になるとお世話になるナベ料理に例えるとか。最近では2~3の味が同時に楽しめる仕切りつきのナベをよく見かけますが、あの仕切りがとれて自分の好物の混布だしのスペースに隣の豆乳鍋が流れ込んでくるようなものかもしれません。だとしたらちょっとヤバいw 混布だしを楽しもうとしていた人にとって流れ込んでくる豆乳は自分のナベを台無しにするやっかいなものかもしれない。
そこに混布だしと豆乳のどちらが正しいとかどちらが優れてるとか関係なくって、違うものが触れること、混ざること自体、当事者にとってはそう簡単でない気もします。
こうしてみると今の西欧の個人の自由、平等、を柱にした価値観はスゴイんだなー、と改めて思っちゃう。つまりこの個人の権利を一番上に掲げる価値観は、言ってみればどんな具でもそこそこ美味しくいただける理想のスープのようなもので、その出現は画期的だったに違いありません。ボクもこの万能スープならその中にいろんな価値をぶちこんで、多様な具で全体としてオイシイ理想の鍋ができあがると信じていた。
でも今回の風刺画テロ事件はそれがそう簡単ではないことを示したと思うんだよねー。何世紀にもわたる異文化間の摩擦を経て近代の基になる普遍的な価値を見つけ、EUのような国家の垣根を低くすることまでやってのけた西欧。そんな優れたスープだから、まぁいろいろあるけどやがて世界は西欧型の価値観が浸透していくだろう、くらいにノンキに思ってたんだよねー。
いやー、しかし何故理想のスープにならなかったのだろう?多文化が融和しているように思えたのは表面だけで、実際は違ったのだろうか?異文化共生はそんなに難しいものか?現地で生活をしていない自分にはなかなかわからない。
でもこういった事件が貧困等と無関係でないなどという情報とかからいろいろ考えて、「ピザ」を思い出した。鍋やらピザやら食べ物の例えばかりで恐縮ですが、つまり「ピザを本当に公平に分けることは可能か?」みたいな問題です。「そんなの仮に8人で食べるなら大きさで8等分すればいいじゃん」と言われるかもしれないけど、それがなかなか難しい。一生懸命稼いだ人が「自分はこのピザの費用の三分の一のお金を払った。なのに何故8分の一だ?」と言ってきたらどうでしょう?確かに負担という面からみたら単なる8等分は公平ではないかもしれません。あるいは体の大きい人が「栄養を一番必要としている人が一番大きなピザを食べるべきだ」というかもしれません。確かにおなかのすき具合も考えた方がよさそうです。結局のところ誰もが不満を抱えながらしょうがないな、と妥協しながらピザを分けているのが現実ではないでしょうか?
しかしこれが余裕のあるうちは「仕方がない、ゆずってやるよ」ですむところが譲れないような状況になったらどうでしょう?異なる「正義」対「正義」では相手の主張を認めること即ち自分たちの正義を否定することにつながるケースがあるかもしれません。さらに深刻なのはピザが小さくなって「生存」対「生存」になる場合です。相手のピザをぶんどらなければ自分や自分の家族が飢え死にするようなケースでは仕方ないななどと言ってられない深刻な事態になるでしょう。それが「国家」対「国家」で資源をめぐってぶんどりあいになれば戦争になるかもしれませんし、これが国内であればまず力の弱い少数派のピザが減らされるでしょう。
そしてそのためにはわかりやすい「線」が引かれるのではないでしょうか。可視しにくいあいまいな線ではなく、あきらかに周りと違った集団との間にわかりやすい線が引かれがちなのではないでしょうか。もちろん支配者と民衆、富裕層と貧困層の間に線が引かれ衝突することもありますが、まずリスクの少ない少数派が迫害されるのは容易に想像できます。強いものが弱いものから奪う方がはるかに簡単だからです。つまり異文化の間に引かれる線はふだん見えなくてもピザが小さくなると現れてくる、そんな感じ。不況になると「移民が自分たちの職を奪ってる」など不寛容で不正確な声が大きくなるように思えるしね。
さて、仮にこの世界に単一人種単一文化、しかも貧富の差も支配層もない平等な国があったとします。そんな線が引きにくい国でピザを平等に分けたら皆が餓死してしまうような事態になったらどうなるでしょうか?もしかしたら、無理やり血液型で分けたりするかもしれません。そうしたら少数派のAB型の人は気を付けてくださいねw それは冗談としても、社会は分配のために線を引かざるを得ないみたいな当たり前のことを改めて感じたわけです。
で、日本なんだけど、これから労働人口の不足を補うために移民を受け入れていくらしい。 それがなくても長い目で見たら国の活性化、繁栄のために?さらなる多文化共生は必要かもしれない。
でも今回のフランスでの悲劇を見たらことはそう簡単でないかもしれない。何十年か先にフランスと同じような事件が日本でもおこらないよう、ちゃんとヨーロッパやイスラムの苦悩を見て、しっかり開国していかないといけないんだろうな。
あーっ、でも自分英会話教室もう3か月行ってないw
あのフランスの事件、なんとも頭の中とかモヤモヤして仕事も手につかないのでなんとなく「表現の自由」について普段思ってることを書きだしてみた。いやー、なんかもうまとまらなくて長くてグズグズでごめんなさい。
表現の自由って言ってみれば何なんだろうなーって考えて、僕の場合頭に浮かぶのは「砂金採り」なのね。おととし静岡の川で砂金採りやってみたんだけど。とにかくめんどくさい。何度すくったって土くればかりで金なんてありゃしない。でも砂金採りの人ってのはそれを辛抱強く何度も何度もやってわずかな金を手に入れようとしてたんだよな。
表現も同じで、指導者の宣言からtwitterでの愚痴までそれはもうピンからキリ玉石混交、とにかく様々な表現が生まれるんだけど、ほとんどは土くれのようなすぐ消えていくようなものばかり。だけどその中に混ざってるわずかな金を手に入れるためには砂金採りをやめるわけにはいかない。土くれと格闘を続けなければいけない。
しかしなぜそんなめんどくさいことしなきゃいけないんだろう?土くれなんてすぐ捨てればいいじゃん、てゆーか金て何よ?そんな苦労する必要あるの?て思うよね。
でもってう~ん、て考えて思い出したのは誰かエライ人が言ってた「人間は不完全」「人間は必ず間違う」みたいな言葉。
例えば砂金採りが求める「金」を科学が求める「新しい法則」に変えてみたらどうだろう?科学の法則は実験で得られたデータで変わっていく。実験のデータはどんどん増えていくし、もう完ぺき!とか思っても地球の外からまた新しいデータが届くかもしれない。つまり科学の真実は永遠に「真実(仮)」なのだ。科学でさえそうなのだから「社会制度」や「人の生き方」や「善悪」「正義」などなど環境や文化が変われば、どんどん変わっていくんだと思う。つまりすべての価値は「常に暫定的で次の更新を待っている」カンジ。でその更新がないときっと破綻しちゃう。だって世界は変化してるから。
例えば地球のプレートがゆっくり動くように世界も常に変化してて小さな更新を常にしていないとやがてひずみがたまって大きな地震に見舞われるカンジ。目をつぶって山道運転したら絶対カーブで落ちるでしょ、ってカンジ。現実に政権の転覆などで昨日までの正しさがガラっと変わってしまった経験のある人々はより切実なに感じるんじゃないだろうか。そして徐々に更新していくということは、常に新しい異論を吟味し続けることのような気がする。
そう考えるとよく表現の自由は「表現した者への寛容さの象徴」みたいに捉えられることが多いけど、それだけじゃなく自分の従来の価値とは相いれない表現に対して自分を開いておくことで、何より「自分を更新する機会を逃さないこと」が大切なんじゃなかろうか?表現の自由は表現する人のためだけじゃなく、表現を受ける側のためでもある気がする。
さて、話を砂金採りに戻すと、ややこしいのはボクらが探す「金」は「未来の価値」なんだけど、「未来の価値を選ぶ基準」は現在は持っていないのだから、これはもう得体のしれない土くれの中から皆でワイワイ「これが金だ」「いやこっちの方が光ってるよ」などと手さぐりで金はどれかを決めるしかないということになる。あらかじめ金と土くれが決まってるわけじゃないんだから、誰かが「こんなもの土くれだ」と勝手に捨てることは許されなくなる。究極的にはその時その時の全人類の表現が全て開陳され、それを全人類で選択淘汰してゆく。多様なエントリーと開かれた選択淘汰の仕組み。そんな自然淘汰に近いような状況が理想なのかもしれない。
でもねー、現実はそうはいかない。原則をいえばどんな土くれもそれが金になる可能性を否定できないんだから捨ててはいけないんだけど、中には「経験上これは絶対金じゃないわ!」みたいな人を不快にさせる「ウンチ」みたいなものや、社会そのものを壊す有害な「毒」のような危ないものも混ざってる。そういう「表現するべきではない」ものはそれぞれの社会がそれぞれの文化や歴史的な背景をもとにマナーから法律まで使って、規制してるんだろうね。
ただこの「表現すべきでない」ことの線引きはウネウネしたアメーバに直線定規をあてるような難しいことで、だからいろんなケースで議論や摩擦の原因になってるんだと思う。いずれにしろ表現の規制は、原則にしたがえばど「なんか不快だから封じ込めろ」みたいな簡単なものでなく、「いやまぁどっから見ても金じゃないよね、絶対違うよね」みたいな慎重さが必要になると思う。
さて、今回のフランスの件。ボクもフランスに行った時感じたんだけどフランスってすごく個人の考えやその表現を重んじてくれる国なのね。おそらく宗教や王といった権威と闘ってきた歴史があるんだろうな。「人間は個人として自由であるべし!」みたいな、想像をたくましくして言えば「それこそがフランス国民!」みたいな。だから今回問題になった風刺画もただイスラム教徒をおちょくってやれ、みたいな軽い動機で描かれたのではなく、「フランス国民になれ!」という確信的なメッセージだった気がする。
つまり「風刺画くらいでカリカリするな」「この耐え難い風刺画を笑って受け入れられるようになれ」みたいな。フランス人になりたいのならフランスがが歴史の中で選んだより普遍的な価値の元で、他の人々、例えばキリスト教徒と同じようにイスラム教徒も神への冒涜を受け入れよ、ということだったんじゃないかな?
だから今回の事件で風刺画が下劣だったり笑えないことで風刺画家の力量を測るのはちょっと違う気がする。あるいは人を傷つけたからあの風刺画はダメだ、というのもちょっと見当はずれの批判な気がする。
ただじゃあイスラム教徒だって、普遍的な価値かなにか知らないけど自分が大切にしているものを貶められたら腹が立つ。それにフランス国民になれと言われてもそれぞれの生活の場では差別もあり、例えばフランス人として白人と同じように扱われてるかと言えばきっとそうじゃないだろう。あるいは宗教的権威を批判するといってもユダヤ教はどうなんだ?パレスチナでひどいことをしているのを欧米はただだまって見ているじゃないか、などなど想像だけどそう簡単に受け入れられるメッセージじゃなかったんだろう。
いずれにしろ、今回の事件は違う文化、違う価値観の人々が一緒に生きることのむずかしさをこれでもか!と感じさせる悲劇だったと思うけど、この事件のあとどうしていったらいいだろう?
抽象的な言い方になるけど「進むべき方向をあきらかにし、後戻りをしない」ということかな。
進むべき方向ってのはやっぱり将来はさらに多文化共存の時代になると思うんだよね。そんな未来に向けてどんな文化の人もどんな宗教の人も納得できる普遍的な価値を求めていくこと。そういった試みの先進国欧米でもフランス型、イギリス型ともに苦労してるようだし簡単じゃないだろうけどな。いずれにしろ一部の宗教に感じるような排他的な部分は抑制していかないといけない気がする。
そして後戻りをしない、というのは決して暴力をゆるさないということ。中には言論で傷つけることも暴力で傷つけることも同じという論調もあるけど、それは違う。確かに肉体的な傷よりも深く心に残る傷もあるだろう。だけど残念ながら人の心の傷つき具合で許される表現かどうかの線は引けない。それぞれの人が違う大切なものを抱えている限りそこに線をひくのは難しい。もちろん言論で傷ついたという告発はどんどんやった方がいい。だけど今現在誰もがわかりやすい後戻りしないための共通の線を引くとしたら暴力か言論かの間しかない気がする。
そして暴力は暴力をよぶ、おそらくフランスでも今回の事件をきっかけにイスラムへの報復的な暴力が懸念されているだろう。暴力は暴力を産み、それはエスカレートし両者の溝を広げ、必要のなかった多数の犠牲を出すことになる。
そして暴力はその暴力をふるわれた当事者だけでなく、広く社会の表現の委縮をもたらす。
言葉が恐怖の壁の前でたちすくみ、沈黙のまま消えていく。そして砂金採りの手の中にはあらかじめメッキされたまがいものの「金」だけが残ることになる。
ニュースではフランスでテロへの抗議のために200万人の人が集まったという。各国首脳や様々な宗教の人が風刺画に抗議をしていたイスラムの人たちまでもが暴力に反対する抗議の声を上げた。この事件が逆に安易に暴力に走ろうとする人たちを孤立させるキッカケになったらそれは素晴らしいことだと思う。
最後にちょっとこの国の話。
日本ていつも規制がなくても自粛しすぎ、みたいな批判をよく耳にする。確かにメディアも作家も長いものにはまかれろじゃないけど、リスクをとってまで何かを表現するのに及び腰で、ホントに思ってることがなかなか表に出せない空気がある気がする。
比較的安全な現在ですらそうなのだから、もし今回のような言論に対するテロが日本でおこったら、もう皆アブナイことは何も言わなくなっちゃう気がする。
その原因のひとつとして、WEB等で流れる今回の事件に関する意見を見てると、何か思い切って表現しても、もしそれが問題になった時、誰も守ってくれない気がするんだよね。甘いかもしれないけど。
もし万が一身に危険が及んでも、それは自業自得で自分の身は自分で守るべきと言われそう。そんな環境で、自分や自分の大切な人を危険にさらしてまで言いたいことを言える人は少ないんじゃないかな。
表現する勇気と表現を守る勇気ってきっと両方必要なのかもしれない。
はっきり言えばこの国では表現の自由はそんなに大切に思われてないんだろうなー。そんなことよりも人々にとっては波風が立たないことの方が大切でなんじゃないだろうか。表現の自由が大切だって言う人の中にも「自分が言いたいこと言って、自分が聞きたいものを聞くのを表現の自由」だと思ってる人が多い気がする。前にも書いたように表現の自由の肝心なとこは「自分の聞きたくないことを聞くこと」そして「聞きたくないことを言う人を守る」ことだと思う。
でもねー、まぁねー、とか何とか言っても波風を立たせないような忍耐と気遣いのおかげで日本の平穏が保たれている部分も大きいのかもしれない。そしてホントに明日っから何でも言え!みたいになったら混乱して収集つかなくなってコワイ気もする。だけど、やっぱりその陰で知りたくないけど何か大切なものが土くれと一緒に闇に流されていっていないか?大きな岩盤がゆっくりと動いてるときに小さな摩擦をおそれていたらひずみがたまって大地震にならないか?なんか少し注意してった方がいいかもしれない。
砂金採りはホントに大変だ。土くればかりだし、金なんてごくわずかだし、中には毒とか危ないものが混ざってるかもしれないし、さすがに選ぶ前に捨てた方が良いようなものもあるだろうし、時には声の大きい人にまかせて自分は休みたくなるかもしれない。皆で選んでもカスをつかむこともあるかもしれないし、事を急いてケンカになるのも、ケンカを避けて曖昧になりすぎるのもマズイ。いやもうホント面倒だけど、ちょっと目をそらしている間に速さを増す川に流れは金はどこかに流れさってしまっているかもしれない。
ふー…だけど続けないといけないんだろうね、砂金採り。