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2015.01.12 10:30 PM 投稿:by しりあがり寿
例えば砂金採り

あのフランスの事件、なんとも頭の中とかモヤモヤして仕事も手につかないのでなんとなく「表現の自由」について普段思ってることを書きだしてみた。いやー、なんかもうまとまらなくて長くてグズグズでごめんなさい。



表現の自由って言ってみれば何なんだろうなーって考えて、僕の場合頭に浮かぶのは「砂金採り」なのね。おととし静岡の川で砂金採りやってみたんだけど。とにかくめんどくさい。何度すくったって土くればかりで金なんてありゃしない。でも砂金採りの人ってのはそれを辛抱強く何度も何度もやってわずかな金を手に入れようとしてたんだよな。

表現も同じで、指導者の宣言からtwitterでの愚痴までそれはもうピンからキリ玉石混交、とにかく様々な表現が生まれるんだけど、ほとんどは土くれのようなすぐ消えていくようなものばかり。だけどその中に混ざってるわずかな金を手に入れるためには砂金採りをやめるわけにはいかない。土くれと格闘を続けなければいけない。
 
しかしなぜそんなめんどくさいことしなきゃいけないんだろう?土くれなんてすぐ捨てればいいじゃん、てゆーか金て何よ?そんな苦労する必要あるの?て思うよね。
でもってう~ん、て考えて思い出したのは誰かエライ人が言ってた「人間は不完全」「人間は必ず間違う」みたいな言葉。

例えば砂金採りが求める「金」を科学が求める「新しい法則」に変えてみたらどうだろう?科学の法則は実験で得られたデータで変わっていく。実験のデータはどんどん増えていくし、もう完ぺき!とか思っても地球の外からまた新しいデータが届くかもしれない。つまり科学の真実は永遠に「真実(仮)」なのだ。科学でさえそうなのだから「社会制度」や「人の生き方」や「善悪」「正義」などなど環境や文化が変われば、どんどん変わっていくんだと思う。つまりすべての価値は「常に暫定的で次の更新を待っている」カンジ。でその更新がないときっと破綻しちゃう。だって世界は変化してるから。

例えば地球のプレートがゆっくり動くように世界も常に変化してて小さな更新を常にしていないとやがてひずみがたまって大きな地震に見舞われるカンジ。目をつぶって山道運転したら絶対カーブで落ちるでしょ、ってカンジ。現実に政権の転覆などで昨日までの正しさがガラっと変わってしまった経験のある人々はより切実なに感じるんじゃないだろうか。そして徐々に更新していくということは、常に新しい異論を吟味し続けることのような気がする。
 
そう考えるとよく表現の自由は「表現した者への寛容さの象徴」みたいに捉えられることが多いけど、それだけじゃなく自分の従来の価値とは相いれない表現に対して自分を開いておくことで、何より「自分を更新する機会を逃さないこと」が大切なんじゃなかろうか?表現の自由は表現する人のためだけじゃなく、表現を受ける側のためでもある気がする。

さて、話を砂金採りに戻すと、ややこしいのはボクらが探す「金」は「未来の価値」なんだけど、「未来の価値を選ぶ基準」は現在は持っていないのだから、これはもう得体のしれない土くれの中から皆でワイワイ「これが金だ」「いやこっちの方が光ってるよ」などと手さぐりで金はどれかを決めるしかないということになる。あらかじめ金と土くれが決まってるわけじゃないんだから、誰かが「こんなもの土くれだ」と勝手に捨てることは許されなくなる。究極的にはその時その時の全人類の表現が全て開陳され、それを全人類で選択淘汰してゆく。多様なエントリーと開かれた選択淘汰の仕組み。そんな自然淘汰に近いような状況が理想なのかもしれない。

でもねー、現実はそうはいかない。原則をいえばどんな土くれもそれが金になる可能性を否定できないんだから捨ててはいけないんだけど、中には「経験上これは絶対金じゃないわ!」みたいな人を不快にさせる「ウンチ」みたいなものや、社会そのものを壊す有害な「毒」のような危ないものも混ざってる。そういう「表現するべきではない」ものはそれぞれの社会がそれぞれの文化や歴史的な背景をもとにマナーから法律まで使って、規制してるんだろうね。
ただこの「表現すべきでない」ことの線引きはウネウネしたアメーバに直線定規をあてるような難しいことで、だからいろんなケースで議論や摩擦の原因になってるんだと思う。いずれにしろ表現の規制は、原則にしたがえばど「なんか不快だから封じ込めろ」みたいな簡単なものでなく、「いやまぁどっから見ても金じゃないよね、絶対違うよね」みたいな慎重さが必要になると思う。

さて、今回のフランスの件。ボクもフランスに行った時感じたんだけどフランスってすごく個人の考えやその表現を重んじてくれる国なのね。おそらく宗教や王といった権威と闘ってきた歴史があるんだろうな。「人間は個人として自由であるべし!」みたいな、想像をたくましくして言えば「それこそがフランス国民!」みたいな。だから今回問題になった風刺画もただイスラム教徒をおちょくってやれ、みたいな軽い動機で描かれたのではなく、「フランス国民になれ!」という確信的なメッセージだった気がする。
つまり「風刺画くらいでカリカリするな」「この耐え難い風刺画を笑って受け入れられるようになれ」みたいな。フランス人になりたいのならフランスがが歴史の中で選んだより普遍的な価値の元で、他の人々、例えばキリスト教徒と同じようにイスラム教徒も神への冒涜を受け入れよ、ということだったんじゃないかな?
だから今回の事件で風刺画が下劣だったり笑えないことで風刺画家の力量を測るのはちょっと違う気がする。あるいは人を傷つけたからあの風刺画はダメだ、というのもちょっと見当はずれの批判な気がする。
 
ただじゃあイスラム教徒だって、普遍的な価値かなにか知らないけど自分が大切にしているものを貶められたら腹が立つ。それにフランス国民になれと言われてもそれぞれの生活の場では差別もあり、例えばフランス人として白人と同じように扱われてるかと言えばきっとそうじゃないだろう。あるいは宗教的権威を批判するといってもユダヤ教はどうなんだ?パレスチナでひどいことをしているのを欧米はただだまって見ているじゃないか、などなど想像だけどそう簡単に受け入れられるメッセージじゃなかったんだろう。

いずれにしろ、今回の事件は違う文化、違う価値観の人々が一緒に生きることのむずかしさをこれでもか!と感じさせる悲劇だったと思うけど、この事件のあとどうしていったらいいだろう?
抽象的な言い方になるけど「進むべき方向をあきらかにし、後戻りをしない」ということかな。
進むべき方向ってのはやっぱり将来はさらに多文化共存の時代になると思うんだよね。そんな未来に向けてどんな文化の人もどんな宗教の人も納得できる普遍的な価値を求めていくこと。そういった試みの先進国欧米でもフランス型、イギリス型ともに苦労してるようだし簡単じゃないだろうけどな。いずれにしろ一部の宗教に感じるような排他的な部分は抑制していかないといけない気がする。

そして後戻りをしない、というのは決して暴力をゆるさないということ。中には言論で傷つけることも暴力で傷つけることも同じという論調もあるけど、それは違う。確かに肉体的な傷よりも深く心に残る傷もあるだろう。だけど残念ながら人の心の傷つき具合で許される表現かどうかの線は引けない。それぞれの人が違う大切なものを抱えている限りそこに線をひくのは難しい。もちろん言論で傷ついたという告発はどんどんやった方がいい。だけど今現在誰もがわかりやすい後戻りしないための共通の線を引くとしたら暴力か言論かの間しかない気がする。
 そして暴力は暴力をよぶ、おそらくフランスでも今回の事件をきっかけにイスラムへの報復的な暴力が懸念されているだろう。暴力は暴力を産み、それはエスカレートし両者の溝を広げ、必要のなかった多数の犠牲を出すことになる。
 そして暴力はその暴力をふるわれた当事者だけでなく、広く社会の表現の委縮をもたらす。
言葉が恐怖の壁の前でたちすくみ、沈黙のまま消えていく。そして砂金採りの手の中にはあらかじめメッキされたまがいものの「金」だけが残ることになる。
ニュースではフランスでテロへの抗議のために200万人の人が集まったという。各国首脳や様々な宗教の人が風刺画に抗議をしていたイスラムの人たちまでもが暴力に反対する抗議の声を上げた。この事件が逆に安易に暴力に走ろうとする人たちを孤立させるキッカケになったらそれは素晴らしいことだと思う。

最後にちょっとこの国の話。
日本ていつも規制がなくても自粛しすぎ、みたいな批判をよく耳にする。確かにメディアも作家も長いものにはまかれろじゃないけど、リスクをとってまで何かを表現するのに及び腰で、ホントに思ってることがなかなか表に出せない空気がある気がする。
比較的安全な現在ですらそうなのだから、もし今回のような言論に対するテロが日本でおこったら、もう皆アブナイことは何も言わなくなっちゃう気がする。
その原因のひとつとして、WEB等で流れる今回の事件に関する意見を見てると、何か思い切って表現しても、もしそれが問題になった時、誰も守ってくれない気がするんだよね。甘いかもしれないけど。
もし万が一身に危険が及んでも、それは自業自得で自分の身は自分で守るべきと言われそう。そんな環境で、自分や自分の大切な人を危険にさらしてまで言いたいことを言える人は少ないんじゃないかな。
表現する勇気と表現を守る勇気ってきっと両方必要なのかもしれない。

はっきり言えばこの国では表現の自由はそんなに大切に思われてないんだろうなー。そんなことよりも人々にとっては波風が立たないことの方が大切でなんじゃないだろうか。表現の自由が大切だって言う人の中にも「自分が言いたいこと言って、自分が聞きたいものを聞くのを表現の自由」だと思ってる人が多い気がする。前にも書いたように表現の自由の肝心なとこは「自分の聞きたくないことを聞くこと」そして「聞きたくないことを言う人を守る」ことだと思う。

でもねー、まぁねー、とか何とか言っても波風を立たせないような忍耐と気遣いのおかげで日本の平穏が保たれている部分も大きいのかもしれない。そしてホントに明日っから何でも言え!みたいになったら混乱して収集つかなくなってコワイ気もする。だけど、やっぱりその陰で知りたくないけど何か大切なものが土くれと一緒に闇に流されていっていないか?大きな岩盤がゆっくりと動いてるときに小さな摩擦をおそれていたらひずみがたまって大地震にならないか?なんか少し注意してった方がいいかもしれない。

砂金採りはホントに大変だ。土くればかりだし、金なんてごくわずかだし、中には毒とか危ないものが混ざってるかもしれないし、さすがに選ぶ前に捨てた方が良いようなものもあるだろうし、時には声の大きい人にまかせて自分は休みたくなるかもしれない。皆で選んでもカスをつかむこともあるかもしれないし、事を急いてケンカになるのも、ケンカを避けて曖昧になりすぎるのもマズイ。いやもうホント面倒だけど、ちょっと目をそらしている間に速さを増す川に流れは金はどこかに流れさってしまっているかもしれない。

ふー…だけど続けないといけないんだろうね、砂金採り。

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コメント

あの事件以降何となくモヤモヤしてたというのは非常に分かります。
移民と文化の違いは他人事ではないからなのか・・・
最終的に多文化共存の時代になるというのはなるほどと感じました。

自分は卿に入っては卿に従えで、やはり国家に属したら国家の一員にならなきゃいけないのかなと感じました。
もっと言えば宗旨替えをしなければいけなかったのではないかと。
イスラム教を辞めるのではなく、あくまでフランスの常識の範囲のイスラム教でなくては。
文化や宗教の為にフランスの常識を破れる人がフランスに住んではいけなかったのかと思います。

テロ組織対市民や軍対市民ではなく移民対市民だったのが今回はちょっとまずいように思えました。

投稿: | 2015/01/13 07:09

賢い人の場合は建物の中に入りたいのに鍵がない、
賢くない人の場合はドアがどこだかわからない。
教わってない人ならドアというものを知らない。
間違ってる人は壁をドアだと思ってた。
運がいい人は窓があるのに気付いて中を覗くことができた。
そうしてみんなその周りをうろうろ回っているし、
意味がわからない人や必要ない人はそこから去っていく。
そんな感じです。

投稿:k | 2015/01/13 10:05

表現の専門家に、拙い頭で異論を唱えるのは恐れ多いのですが、
イスラム教徒に、豚肉を食すことをもって「住んでいる土地に文化になじめ」といえるでしょうか。
風刺は勿論なのですが、そもそもイスラム教は偶像崇拝を厳格に禁じている宗教です。あの風刺画を自分のノートへの落書きではなく「公開した」ことは、豚肉を食べさせるに等しい行為になってはいないでしょうか。
それは恐らく、彼らにとって寛容という範疇を超え、信仰を捨てよといわれているのに等しいのではないかと考えます。

投稿: | 2015/01/13 10:05

数十億の心あるムスリマンは耐え難きを耐え、心の拠り所であるムハンマドへの侮辱を壮絶なる努力の上で「無視」してきた訳ですが。
暴力に訴えたカルト教狂信者のせいで、いっしょくたにされてしまう怖さがあります。

言論に自由があっても、踏みにじってはいけない事もあります。
ペンは暴力でもあります。
せめて、隣の人が大事にしてるものを尊重して欲しい。
今まで耐えてきた人々は言論の自由を尊重してきてた訳ですから。

ヘイトスピーチも言論の自由なら受け入れなくてはいけないのでしょうか?

投稿:サイマズ陽子 | 2015/01/13 18:05

もっとモヤモヤするのは「宗教的タブーに挑戦する俺たちカッケー.この風刺画を
受け流せないムスリムはフランス社会に受け入れられなくて当然」みたいな
ところです.いつかこういうことが起こると思っていた人は多いんじゃないかと.

随分前ですけどパリのマスコミのこういう態度をフランスの田舎の人
(素朴な先祖代々のカトリック)がひどく嫌っている話を聞いたことがあります.
はっきりいってました.ユダヤ人の無神論者の陰謀だと.
「日本にはユダヤ人がいないんでしょう」「でもコミュニストの陰謀はある」
いまなら朝鮮人というのがいて,と話してしまうかもしれない.

日本でも「「媚韓マスコミ」に挑戦する俺たち「嫌韓」はカッケー」とか
「「在日支配のマスコミ」はもう信用ならない」.ちょっと昔には
「「政府」「自民党」に物申す俺たち「朝日新聞」カッケー」とか

とにかくマスコミ批判を見逃してはいけないと思うのです.

投稿:seihm | 2015/01/13 22:26

フランス革命と今回のテロの違いはどこにあるんでしょう。
体制をひっくり返すのに成功したかどうか、でしょうか?

投稿: | 2015/01/14 15:42

「砂金堀り」と「科学上の新しい法則」を同列に扱う比喩は変でしょ。「科学の新しい法則」の価値は発見されないとわからない(決まらない)けど、金の価値はある程度決まっているし(ある程度価値が決まっているから掘るんだし)。風刺画に、苦労して掘った砂金ほどの価値はあるのだろうかとも思うし。というか、何度も襲撃されていたんだからテロ実行犯が「ちっくしょー、うまいこと描きやがって。笑うしかねーじゃねーか」と思えるような表現に洗練されていかなかった時点で最早失敗しているんだろう。砂金堀りだって、道具は洗練されていくんだし。揶揄することだけが目的の風刺画なら、なくてもいいんじゃないかな。

もちろん、どんな理由があれ、「テロは許されない」というのは大前提として。

投稿: | 2015/01/14 16:07

「…自分の従来の価値とは相いれない表現に対して自分を開いておくこと」…ここで泣きました。

投稿: | 2015/01/25 03:56
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