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2015.01.25 05:33 PM 投稿:by しりあがり寿
例えばナベとかピザとか

いやー、この前のブログが思いのほかたくさんの人に読んでもらえたみたいで、ありがとうございました!
で、日にちがずいぶんたっちゃいましたがちょっと時間ができたので調子にのってあの時思ったことを少し書きたしておきます。



ボクが風刺漫画の事件で驚いたのは大きく分けて二つでした。

一つはシャルリーの風刺漫画がひどかったこと(笑)。
おそらく日本であのマンガはダメだろー。表現がストレートすぎることや対象を傷つけること、あるいはクレーム、報復を恐れてというのもあるかもしれませんが、おそらく日本のメディアでは載せられないと思います。それがなぜフランスではOKなのか?なぜ漫画家たちはあのような挑発的なマンガを描き続け、そしてそれを多くの人が認め、テロの後にあのような「私はシャルリーだ」と連帯が広がったのか?
そんな疑問があのブログを書くキッカケでした。ネット等で多少フランスの情報などをかじり、事情に詳しい方のtweetとか読んでくと、ああ、表現の自由は単に「相手がイヤなものは描かない」ということだけではすまないのだな、言いたいことを言える快感だけが大切なのでなく、社会が更新していくために表現の自由って大切なのかもな、と思って前回の砂金採りの話を書いたんですねー。
 で、事件を知ってボクが驚いたことはもう一つあります。それは「フランスでもダメなのか…?」という驚きです。つまり多文化共生についてフランスなど欧米は先進国のはずなのにああいうことはおこるんだ、というビックリ。実際フランスだけでなくヨーロッパやアメリカの街を歩くと日本に比べ、実に様々な肌や髪の人たちがいることに驚かされます。ところがそんな多文化先進国で今回のような事件がおきた。そういえばアメリカでも最近人種を発端とした暴動がおこりましたし、2011年のイギリス、2005年のフランスの暴動もおそらく異文化間の軋轢が原因のひとつだったと思います。なぜ異文化が対立するんだろう?なぜ共生がうまくいかないんだろう?日本に住んでると正直なかなかピンときません。
 幸いそういった摩擦を経験せずに生きてきた自分の勝手な想像ですが、多文化共生ってお寺の鐘がゴーンとなるような昔ながらの土地に、モスクができてゴーンと一緒にイスラムの詠唱が流れるようなものなのかなー?だとしたら、近くの学校の運動会がうるさいとクレーム入れるような昨今の風潮からするとモスク反対の運動がおこるかもしれません。いや逆に明治維新でたやすく西欧文化を取り入れた日本にはそんなものへっちゃらかもしれませんし
 あるいは冬になるとお世話になるナベ料理に例えるとか。最近では2~3の味が同時に楽しめる仕切りつきのナベをよく見かけますが、あの仕切りがとれて自分の好物の混布だしのスペースに隣の豆乳鍋が流れ込んでくるようなものかもしれません。だとしたらちょっとヤバいw 混布だしを楽しもうとしていた人にとって流れ込んでくる豆乳は自分のナベを台無しにするやっかいなものかもしれない。
 そこに混布だしと豆乳のどちらが正しいとかどちらが優れてるとか関係なくって、違うものが触れること、混ざること自体、当事者にとってはそう簡単でない気もします。

 こうしてみると今の西欧の個人の自由、平等、を柱にした価値観はスゴイんだなー、と改めて思っちゃう。つまりこの個人の権利を一番上に掲げる価値観は、言ってみればどんな具でもそこそこ美味しくいただける理想のスープのようなもので、その出現は画期的だったに違いありません。ボクもこの万能スープならその中にいろんな価値をぶちこんで、多様な具で全体としてオイシイ理想の鍋ができあがると信じていた。
 でも今回の風刺画テロ事件はそれがそう簡単ではないことを示したと思うんだよねー。何世紀にもわたる異文化間の摩擦を経て近代の基になる普遍的な価値を見つけ、EUのような国家の垣根を低くすることまでやってのけた西欧。そんな優れたスープだから、まぁいろいろあるけどやがて世界は西欧型の価値観が浸透していくだろう、くらいにノンキに思ってたんだよねー。
 いやー、しかし何故理想のスープにならなかったのだろう?多文化が融和しているように思えたのは表面だけで、実際は違ったのだろうか?異文化共生はそんなに難しいものか?現地で生活をしていない自分にはなかなかわからない。
でもこういった事件が貧困等と無関係でないなどという情報とかからいろいろ考えて、「ピザ」を思い出した。鍋やらピザやら食べ物の例えばかりで恐縮ですが、つまり「ピザを本当に公平に分けることは可能か?」みたいな問題です。「そんなの仮に8人で食べるなら大きさで8等分すればいいじゃん」と言われるかもしれないけど、それがなかなか難しい。一生懸命稼いだ人が「自分はこのピザの費用の三分の一のお金を払った。なのに何故8分の一だ?」と言ってきたらどうでしょう?確かに負担という面からみたら単なる8等分は公平ではないかもしれません。あるいは体の大きい人が「栄養を一番必要としている人が一番大きなピザを食べるべきだ」というかもしれません。確かにおなかのすき具合も考えた方がよさそうです。結局のところ誰もが不満を抱えながらしょうがないな、と妥協しながらピザを分けているのが現実ではないでしょうか?
しかしこれが余裕のあるうちは「仕方がない、ゆずってやるよ」ですむところが譲れないような状況になったらどうでしょう?異なる「正義」対「正義」では相手の主張を認めること即ち自分たちの正義を否定することにつながるケースがあるかもしれません。さらに深刻なのはピザが小さくなって「生存」対「生存」になる場合です。相手のピザをぶんどらなければ自分や自分の家族が飢え死にするようなケースでは仕方ないななどと言ってられない深刻な事態になるでしょう。それが「国家」対「国家」で資源をめぐってぶんどりあいになれば戦争になるかもしれませんし、これが国内であればまず力の弱い少数派のピザが減らされるでしょう。
 そしてそのためにはわかりやすい「線」が引かれるのではないでしょうか。可視しにくいあいまいな線ではなく、あきらかに周りと違った集団との間にわかりやすい線が引かれがちなのではないでしょうか。もちろん支配者と民衆、富裕層と貧困層の間に線が引かれ衝突することもありますが、まずリスクの少ない少数派が迫害されるのは容易に想像できます。強いものが弱いものから奪う方がはるかに簡単だからです。つまり異文化の間に引かれる線はふだん見えなくてもピザが小さくなると現れてくる、そんな感じ。不況になると「移民が自分たちの職を奪ってる」など不寛容で不正確な声が大きくなるように思えるしね。
 さて、仮にこの世界に単一人種単一文化、しかも貧富の差も支配層もない平等な国があったとします。そんな線が引きにくい国でピザを平等に分けたら皆が餓死してしまうような事態になったらどうなるでしょうか?もしかしたら、無理やり血液型で分けたりするかもしれません。そうしたら少数派のAB型の人は気を付けてくださいねw それは冗談としても、社会は分配のために線を引かざるを得ないみたいな当たり前のことを改めて感じたわけです。
 
で、日本なんだけど、これから労働人口の不足を補うために移民を受け入れていくらしい。 それがなくても長い目で見たら国の活性化、繁栄のために?さらなる多文化共生は必要かもしれない。
でも今回のフランスでの悲劇を見たらことはそう簡単でないかもしれない。何十年か先にフランスと同じような事件が日本でもおこらないよう、ちゃんとヨーロッパやイスラムの苦悩を見て、しっかり開国していかないといけないんだろうな。

あーっ、でも自分英会話教室もう3か月行ってないw

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