この3月5日 練馬、刈谷と巡回した回・転・展が伊丹市立美術館でついに終了しました。
最後はどんな感じだったんだろうなぁ?しゅるるるる……ピタ…って感じだったのかなー?
回転が止まるその瞬間、訪れるはずの静寂にその場で身を浸していたかった!
てな感じで自分初の本格的な現代美術の展覧会、ついにおしまいです。
観に来ていただいた皆様、ホントにありがとうございました。
しかし回転ってなんだったんだろうなー。
うーん、思い起こすと最初に回転、面白いな!と思ったのは2011年秋の広島市現代美術館での「世界遺産をめぐる乳首真っ黒族と股のあたりキラッ族の戦い」という展示でした。
これは部屋中に描かれた世界遺産の中で敵対種族の二人組のマネキンが10数組対峙するというインスタレーションだったんだけど、いまいちパッとしない、でいろいろ考えた末浮かんだのが対峙するマネキンを回転させるという案だったんですね。
で、静止してるマネキンを回転させてみたら存在感がアップしてスカスカだった空間が一挙に充実した。
そこで回転することでいったい何が変わったんだろう?とか考えちゃったんですよね。
こういうちょっとしたことで作品がよくなる感じで思い出すのは、例えば自分が絵を描いててどこかに何か色をいれたとたん、絵がよくなる感じ。
ものを作る人なら誰でも経験あるだろうけど「キマッタ!」って感じ。色でも形でもいいのですがパズルがカチッと決まって今までただの色と形だったものが、何かを醸し出す。今までそこになかった何かが立ち上がる。それは風景画であればその森のひんやりした湿り気が感じられるようになったり、人物であればその人が急に命を吹き込まれるような、もっと抽象的な何かでも、ただのキャンバスの上にのせた絵具の膜から別のものに昇華する。
そういうのって誰でもあると思うんだけど、それってざっくり「美が現れた」とか「美が増した」ってことだとしたら、「回転」は「美」を増すことのできる芸術製造行為じゃないですか(笑)しかも止まれば元に戻れる超便利機能。
今まで一生懸命組み立てたり色塗ったりして得ていた「美」が回すだけで得られるってスゴイ!
そんなはずはないだろ!と思いつつ、でも回転で何かが変わってることも確かだし。
他にもそんな質を変える行為はあるんですよね。例えば「額にいれる」。どんなものでも額に入れたとたん「絵画」になります。
あるいは「スポットライトをあてる」。「屏風の前に置く」とかね。だいたいそういうものは対象をエラソーに見せる力がある。
ところが「回転」は違う。対象を権威づけない。どちらかといえば「笑う」。
偉人の銅像、歴史的な光景、価値あるものは回すことで滑稽になり権威を失う。
一方でヤカンやスリッパやとりとめもないものからはその本来の用途を奪い、ある種の浮揚感を伴う価値を与える。まぁ言ってみれば回転というのは価値あるものもないものもいっしょくたにただの「回ってるだけの存在」にしてしまう感じ。
自分はもうずっとそういうのが好きで、若い頃からパロディーやらなんやらでいろんなものを笑っては価値を相対化するのが好きだったんだけど、一方でも全部が同じでいいんだろうか?という疑問はあって、正義やら愛やら真実やら善やらのはどうにも胡散臭くて笑ってやりたいけど、でも何かやはり価値あるものが欲しい。
そんな中で「美」ってのはなんかいいよね、でもエロと笑いが両立しないように笑いと美もなんか一緒になりにくいよねー、みたいににボンヤリ考えてるところに「笑い」と「美しさ」の両方にかかわる「回転」と出会って、こりゃなんか面白いなーと思ってしまったのでした。
そんなふうに回転を考え出すと、素粒子から宇宙まで回転てのはここ世界の中で存在するものの根本なんじゃないか、回転しないものは存在しえないんじゃないか、作品というよりそんな偉大な「回転」そのものを展示したいと思ったり、
行方を失ったようなこの時代に、同じところをぐるぐる回る「回転」が楽観的な進歩史観への嘲笑みたいに思えたり、始まりも終わりも因果もはっきりしない「回転」がご都合主義の物語逃避への批判に思えたり……たりたり
あー、ついに回転展おしまいということでいろいろ書きたいことは浮かぶんだけど、よくわかってないからグダグダできりがない。
整理したらまた書きます。個々の作品についてももうちょっと書きたいしな。
今日のところはここらへんで。
展示にかかわってくださった皆様、ありがとうございました。
回顧展のはずが新作だらけでスタッフの皆さまにはえらくご面倒かけました。
そして会場まで足を運んでいただいた皆様、ホントにありがとうございました。
最後に会期中、グルグルグルグル回ってくれた作品たち、ホントにご苦労様。
普通のただのモノに戻っておやすみなさいませ……ピリオド